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  不公平な競技場
さて能力主義社会を競技場に例えた比喩を再び取り上げよう。理想的には、そこでは誰でもが自由に競技へ参加することが出来る。各人はトラックを走り、他の競技者たちと競争し、努力と能力に応じて彼(あるいは彼女)は報酬を受け取る。とはいえ、それは奇妙な競技場である。というのも、ゴールの1メートル前から走り出す人々もいれば、スタート地点の100メートル手前から走り出す人々もいるからである。ある人々は、競技場の限られた部分しか入ることが許されていないーーこの人々は報酬の高い領域には永久にたどりつけない。またある人々ーー通常は女性ーーは一日のハードな仕事を終え、疲れ果てて競技場に到着する。そして一生の全てではなく、人生の限られた時間だけをその競技場で過ごす。また競技場に近づくことさえ許されない人々もいる。他方では、一歩も走らないのに賞金だけを貰う人々がいる。それは競技場の所有者である。それでも、どのような人々にも、豊かな社会で競技の観衆となり、多額の賞金が配分される様子を眺めることは許されている。もし能力主義の第一段階が、人生の競技において業績にしたがって報酬が配分されることであるとしたら、続く第二段階はーーこちらのほうがより重要なのだがーーだれもが平等な条件で競技をすることができる競技場を建設する事である。報酬の大部分が相続されるような社会では、能力主義を実現するのは不可能である。具体的な例を上げよう。アメリカの雑誌「ソサエティ」の巻頭特集に記事が掲載されたが、そこでは次のように書かれている。
==================
全世帯の1%に過ぎない最富裕層が所有する資産の割合は、1983年の31.5%から89年には36.9%に上昇したが、92年になると30.4%に下降した。したがって全体を長い目で見れば、不平等は多少緩和されている。ただしその変化は統計的に有意なものではない。
==================
 この箇所に続いて論じられているのは、よくありがちな「アメリカンドリームは不平等の拡大などものともしない」という主張である。政治のことなど忘れてしまえ、というわけである。しかし社会民主主義者であれ、自由主義者であれ、保守主義者であれ、ネオリベラリストであれ、これほどの資産が親から相続されている社会を、能力主義にもとずいた自由な労働市場と呼ぶ事は出来ないだろう。「なすにまかせよ」を唱えた古い自由主義者でさえ、報酬の配分については、労働力の需要、供給バランスに合致した、もっと穏やかなグラフを望んだにちがいない。
 現代世界は、いかなる歴史的基準からみても裕福な世界のはずなのだが、それでも人々のあいだに不満が引きおこれている。それは、不満の原因が絶対的な剥奪感ではなく、相対的な剥奪感にあるからである。この競技場で、人々は報酬の配分が不平等であることを感じている。それは、自分が他の人々と同じくらい一生懸命に走ったにもかかわらず実質的な報酬が彼らより少ない、という理由からである。あるいは単純に、競技場やその一部にさえ入ることが許されないという理由からである。そうしたわけで人々は心の底でこう思うようになるーー「もしチャンスさえあったら、自分にも素晴らしい人生が作れるはすなのに」。
   排除型社会  ジャックヤング著 洛北出版 まとまりのある世界とバラバラの世界 より転載
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近代社会はその目的としたものは同化であり、一元化であった。それに対して20世紀の最後の3分の一の後期近代社会の目的としているものはジルドゥルーズの言う“差異化”であり、多様化である。労働市場は能力主義という方法論が不完全な形で現在実行されつつある。アメリカで始まった変化は21世紀の最初にやっと日本でも現実に始まり、現在の格差論議の焦点となって久しい。それでも西欧と比較すると、日本の現状は歴史的、民族的意味からも均質で同質的な要素が未だ強いので、今後の動きは当分西欧を追いかける方向にスピードを増すだろうと漠然と思う。僕が哲学を持ち出すのは社会の思想的主流は経済の方向に準じたものにならざるを得ないということであるから、今後の資本主義世界は総じてそういう方向に走りそうである。差異化した世界は緊張と対立の世界でもあるから調和という秩序からは遠い世界にある。そうした世界が固定化すると多分現在のアメリカのような階層世界が出来て行くということになるのだろう。
もともと相場師は能力主義どころか、資本規模以外はそれ以外に決定要素は強くないが、入場に排除のルールのある労働市場である。金がないと労働力だけでは入れない(入っても意味の無い)世界であるから、それを用意するのがまず苦労が多いのだろうと思う。それを自分でなく、親が用意するというのはルール違反のような気がするのは僕が左翼のせいだろうか?階層の固定化がますます激しくなるというのが目に見えているのだ。本と万年筆以上に重いものを持たない生活で腐るほど素早く金が儲かると、多分若者はそれ以上に大きな間違いを犯すだろうという確信が僕にはある。
孫が生まれる年になれば、いやでもあの世までの時間を考えるようになるが、仮にあと10年生きるとしよう。ちょうど親父の死んだ年までこのまま生きて相場師をするとすれば、それなりの金は残る。例えば10年で資金を10倍にしたとしよう。ありきたりの成果でも多分そうなるだろう。すると2人の子供はリーマンの生涯給与の数倍の金を30代前半で受け取ることに計算上はなる。それが社会正義として正しいとは僕自身は思わないので、勝った相場師は自分でなるべくその金を使うのが正しい、つまりは奢侈こそ社会的調和であると考えるのだ。娘が保育園に通っていた20年前の話である。そのころ朝の通学は僕が車で送っていた。メルセデス500SECだった。中学のときはジャガーソブリンだった。だから娘は贅沢な事が当たり前だと思って育った。当然同世代のコミュニテーから遊離して育たざるを得なくなる。緊張と対立を3歳から経験した猫娘は僕以上に戦闘的になった。全ての男は消耗品である。罰が当たったかな。(笑)
この本は子供がいる相場師全員に是非読んでもらいたい本である。読んだらすこしは日本の景気も良くなるだろう。

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