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神の仕事 |
繰り返しは人に時の循環を教える契機になる。もしもウルスラがその場にいれば、ビラルテルネーラがホセアルカディオに向かって言った言葉「あんたももう一人前ね」をアマランタがアウレリャーノホセに向かって「あんたって、同じ年ごろのアウレリャーノにそっくりね。もう一人前だわ」というのを聞いて、やはり時は流れるのではなく循環しているだけだと気付いて身震いしたことだろう。だが、時間が循環するばかりで本当には流れていないならばブエンディーノ家の衰亡もないわけで、そうならないということは時が循環しながらも少しずつ一つの方向へと不可逆的に流れている、つまり全体としては螺旋を描いて運動しているということに、われわれはこの小説を読みながら気付いている。同じテーマが繰り返し演奏されるように見えながらも、そのテーマは変化して、次第に最後の堂々たる和音へと近づいてゆく。読者がそれを承知しているから、その最後の堂々たる和音はいかにも終焉らしい雄大な悲しみの響きと聞こえるのではないか。謎の羊皮紙を読み解くアウレリャーノは、ついにその内容を知り、「また百年の孤独を運命づけられた家系は二度と地上に出現する機会を持ちえぬため、そこに記されている一切は、過去と未来を問わず、永遠に反復の可能性はないこと」を予想する。すなはち、間近に見て円環と見えた時間がやはり不可逆の一方的な流れであることが明らかになり、それと同時にもう物語はそれ以上書き続けられる必然性を失い、マコンドは地上から消滅する。このようにして対象と平行と繰り返しとを変奏の複雑な様相を描く偉大な小説は終わるのである。 池沢夏樹 「百年の孤独」の諸相 『ブキッシュな世界像』白水社より 転載
誰かを少しはわかろうとする涙ぐましい努力というものを僕はずっと怠ってここまで無事に生きてきたことを実に幸せだなあと正直に思う。だから4半世紀たった今でさえ、マダムが何を想い,考えているのかさっぱりわからないという事になる。それで彼女の読む本、いや過去に読んだ本を書棚から引っ張り出して最近少し読み始めている。ほとんど最近は小説を読まない彼女だが、池沢だけは全ての作品を持っているんじゃないのかというほど、新刊が出るとその全てを買っていた。その中の、初期のエッセイ集を手始めとして、まるで宝探しの地図のように、なにかの在処を探そうとしている不思議な自分がいる。絵本と画集、写真集は共通して読んだり見たりもするが、「健康実用本」「科学的オカルト本」を僕は実に苦手である。だから共通な読書というのを多分ほとんどしてないせいで、わからないという事のいくらかが起きるのかもしれないと推定ぐらいは出来る。その全く集合領域の無い読書の中で,ガルシアマルケスの「百年の孤独」だけは例外だった。20世紀に最後に残された神話の楽園だ。
理解しようとするのは結局は無理だから、理解なんかできないのだろうから、同じ事をいつものようにしていれば(行動していれば)なんとなく「これは嫌いだな、これは気に入りそうだな」ぐらいは少しは察しがつく。レストランなどは、大抵最近は当たるようになった。マルケスではないが、反復という行為は重大な習慣を産むというは、自分の生活体験から明らかで、それだけで飯を食っている我が身としては、何かを考えるよりも何かを行う(あるいは行わない)事こそ重大である。 池沢の指摘するまでも無く、「神話」の神々は事を行う。殺す,奪う、姦うと行為は実に多彩だが、神話に心理描写はまずない。ただただそこには行為があるだけだ。しかもマルケスの練り込む圧倒的な数量という繰り返しをその特徴とするのだ。だから人が神になろうとすれば、圧倒的な数によってそれを真似る以外にない。「殺す、奪う、姦う、」まさに神の仕事そのものだろう。(笑)
その意味で、雨の金曜日に僕はある重大な事を一つまた実行したのである。 Obagi Derma ForceX というなんだかゲームソフトみたいな名前のスキンクリームを薬局に買い行った。およそ10センチ四方の軽いパッケージに入っているクリームは消費税込みで10500円なり。随分高いような気もするが、「これが欲しい!買ってよ。」と先日言っていたのを思い出した。孫が産まれたせいか、あるいは子供達が片付いたせいか、近頃のマダムは物事を小娘のようにねだる。その強請りかたというのは実にストレートで、拒絶を許さない強引な声のトーンと強さみたいなものがあるのだ。逆らうと後が怖いので、大抵は渋々でも従うということになるのだが、願望が達成された時の喜びかたというのが以前と随分異なるのは何故なのか?がちっとも僕にはピンと来ないのである。 僕同様、マダムは美味しい食事と酒が大好きだ。シックなレストランで人様がうやうやしくサーブしてくれる食事をする時には、「主婦」である事をすっかりと忘れられるからだろうし、準備による香りや味見で「なにが出てくるの?どんな味がするの?」という食事における最大の楽しみを奪われることがないせいでもあるのだろう。料理をする人は、自分が作るそれが美味しいという前提で調理したという欲望のせいで、事前に全てを知ってから食事をするという事に嫌でもなってしまから、「驚き」という経験の最大のスパイスを常に断念させられてしまうのだという事に気がついてから、なるべくマダムと素敵なレストランで食事をする機会を増やそうと僕はしたのだ。これは素晴らしい効果が実際にあったし、その後の食卓の質は嫌でも上がった だから誰か親しい友達に会う時は、時間が許せば僕はマダムをなるべく一緒に連れいて行く。それでマダムも僕がわかるだろうし、友達も僕がわかるだろう、そう思うからでもある。何を考え,何を話すかが人は重要なのではない。一緒にいる女がどんな酒を飲み、何を食い、何を着ているのかのほうが、よほど僕を彼に伝えているだろう、そう思うからでもある。その必要がある友人が少なくなってしまったのは僕の仕事のせいでもきっとあるのだろう。 |
22:01, Friday, Oct 26, 2007 ¦ 固定リンク
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