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2007年 4月17日
目的としての知、手段としての知 |
ロジェカイヨウの「聖ー俗ー遊」図式は余りにも有名である。俗の世界において、人は日常の現実を与えられるがまま受け入れ、いわば「ただの人」(ハイデッガー)として生きている、というより生かされている。(実は死んだも同然だ。笑い)この現実を越えてひとつの全く別な文脈をあえて選び取る、全く非日常的な価値体系と深い同一化をとげる、それが聖の世界だとすると、他方遊の世界は、責任体系としての自我の観念も、そのいかなる文脈への統合も拒否し、日常的な価値をはじめとしてあらゆる価値体系を笑いのめすところに成立する。しかも、聖からズッコケて俗、俗からズッコケて遊というハイアラーキーにもかかわらず、聖と遊がその実 通底器をなしているというのも、周知のとおりである。
さて、聖と遊のこの連関が断たれ、各々が閉じてしまったらどうなるか。遊なき聖は自己相対化の契機を失い、一定の価値への無際限の没入を招く。ファナティックな宗教におけるが如き極小政治セクトの分立はその一例であるが、学問の聖なる権威に安住するタコツボ式専門バカにそれを笑う資格があるかどうかは疑わしい。他方、聖の契機を欠いた遊は、対象とかかわっていくダイナミズ ..続きを読む |
なんとなくクリスタル? |
| この場合、いずれの選択も全く魅力を持たないことは、一目瞭然だ。まず、前者である。知のための知などという安手なスローガンを今もって心を動かされる者がいようとは、とても思えない。あくまで虚学だと意識しているうちはいいとして、そのうち司祭のごとき情熱をもって自己目的化した知に拝跪するとなると、傍で見ていて肩をすくめてみたくなるのも無理は無い。しかし、そのようにして肥大した知が、しらずしらずのうちに社会の中で宗教的機能を果たし始めるという逆説にも、あなたは気づいているはずだ。それくらいなら、後者のように「たかが手段なのだから」といって知を相対化する方がましだろう。けれどもそれに対応する目的の方はどうなのか。知を手段として軽視するからには、ほかに重視すべき目的があるだろう。しかし、卒業のための進級、就職のための卒業と、手段ー目的の連鎖を追っていっても、目的はどんどん彼方へ後退し、あとには即時充足的な意味を葬った手段の残骸が連なっているばかり、無理に目をこらしてみても、官僚や医師としての成功、「なんとなく、クリスタル」な「アッパーミドル」の生活といった「幸せ」のイメージがぼんやりとうかんでいるに過 .. 続きを読む |
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